天明3年(1783)、天明の大噴火供養祭
昨日は「天明の大噴火」の供養祭でした。
毎年8月5日に参道で行われます。

供養祭の後、長野原町教育委員会の富田孝彦様に「天明3年の記録~町道長野原線に伴う埋蔵文化財発掘調査」の講演をして頂きました。

(天明3年の大噴火)
天明3年の噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事でした。記録がたくさん残されており、その中には実際に噴火の状況に接した人が書いたものもあり、噴火の経過が非常によく分かります。これらの記録と噴出物の調査によると当時の状況は次のようでした。
噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。沓掛(中軽井沢)や追分などは無事でしたが、人々は7日の朝から南の方へ逃げていきました。7日から8日にかけての噴火はとくにすさまじく、烈しいゆれで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻がすさまじかったといいます。午後4時頃、火口から黒煙がおしだし、黒豆河原一帯を焼きはらい埋めつくしました。これは火山弾と火山灰が一団となって流れ下った火砕流で、その堆積物は18.5ほどの面積にひろがり、体積0.1に及んでいます。高温のため中央部はとけて固まり溶岩のようになっています。その中に、当時生えていた樹木の焼け跡が穴となって残っています。普通このようなものは溶岩の中に木の幹が取り残されてできるので溶岩樹型と呼ばれます。大きなものは直径1m以上もあり、巨大な木が茂っていたことが知れます。8日(8月5日)の明け方少しおさまったものの、午前から再び烈しくなり、午前10時、真っ黒な柱が吹き出すと見る間もなく鎌原の方へぶつかるようにとびだしました。これは巨大な火山弾をまじえた火砕流で、山腹に沿ってなだれ落ちてきたものと思われます。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下ったと考えられますが、現在その堆積物の見られる範囲が鬼押出溶岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もあります。噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられ、柳井沼と呼ばれていました。火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させ、これが鎌原の集落などを襲ったのかもしれません。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、さらに火砕流も起こったと考える人もいます。浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができました。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没してしまいました。このため鎌原では住民597人の内466名が死に、助かった人はわずか131名でした。西側の丘の上に観音堂があり、ここに逃げ登った人は幸いに助かりました。当時50段の石段があったのですが、現在はすっかり埋まって15段だけ残っています。
毎年8月5日に参道で行われます。

供養祭の後、長野原町教育委員会の富田孝彦様に「天明3年の記録~町道長野原線に伴う埋蔵文化財発掘調査」の講演をして頂きました。

(天明3年の大噴火)
天明3年の噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事でした。記録がたくさん残されており、その中には実際に噴火の状況に接した人が書いたものもあり、噴火の経過が非常によく分かります。これらの記録と噴出物の調査によると当時の状況は次のようでした。
噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。沓掛(中軽井沢)や追分などは無事でしたが、人々は7日の朝から南の方へ逃げていきました。7日から8日にかけての噴火はとくにすさまじく、烈しいゆれで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻がすさまじかったといいます。午後4時頃、火口から黒煙がおしだし、黒豆河原一帯を焼きはらい埋めつくしました。これは火山弾と火山灰が一団となって流れ下った火砕流で、その堆積物は18.5ほどの面積にひろがり、体積0.1に及んでいます。高温のため中央部はとけて固まり溶岩のようになっています。その中に、当時生えていた樹木の焼け跡が穴となって残っています。普通このようなものは溶岩の中に木の幹が取り残されてできるので溶岩樹型と呼ばれます。大きなものは直径1m以上もあり、巨大な木が茂っていたことが知れます。8日(8月5日)の明け方少しおさまったものの、午前から再び烈しくなり、午前10時、真っ黒な柱が吹き出すと見る間もなく鎌原の方へぶつかるようにとびだしました。これは巨大な火山弾をまじえた火砕流で、山腹に沿ってなだれ落ちてきたものと思われます。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下ったと考えられますが、現在その堆積物の見られる範囲が鬼押出溶岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もあります。噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられ、柳井沼と呼ばれていました。火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させ、これが鎌原の集落などを襲ったのかもしれません。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、さらに火砕流も起こったと考える人もいます。浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができました。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没してしまいました。このため鎌原では住民597人の内466名が死に、助かった人はわずか131名でした。西側の丘の上に観音堂があり、ここに逃げ登った人は幸いに助かりました。当時50段の石段があったのですが、現在はすっかり埋まって15段だけ残っています。